人生短し走れよ私

人生のピークを過去に設定するにはまだ早いんじゃない?

休職日記④

最近は、用事がないと外に出るどころか着替えることすら覚束ない。

夢の中で何度も何度も夢を見ていて、夢と現の間を行ったり来たりする時間が多くなった。いっそ眠ったままそんな状況が続いてしまえば楽なのにと、ふと思ったりもしている。

先日久々に宿泊を伴う遠出をした。問題なくこなせるか体力的に怪しかったけど無事に楽しむことができた。

やりたいことが見つからないと彼女に相談してみたら、過去の積み残しを考えてみたらそこにヒントがあるのではと助言をいただいた。もっと自分が純粋――人や社会の期待に応えることを第一に考える前――だった頃に考えていたことはなんだろうか。物心ついた時には、もう既にすべきことの意識があったように思える。

貴方のしていることの中にもやりたい要素が大きいものもあるのに全てすべきことになるように自分の中で理由付けをしている。こんなやり取りもあった。これもそうだなって思った。そういうのもある。

でも、死ねば味わわなくても良い苦を感じてまでしたいことって今のところないんだよな。収入がないから競馬とかほとんどやってないけど別に禁断症状出てないし。

こんなことつらつら書いてると、また考えすぎだなんて言われてしまうだろう。でも、もう素朴にやりたいことを見つけるという感覚ではなくて。

この世に生きているだけで感じなくてはならない嫌なことを受けても尚やりたいことを、すべきすべきでない論で全てを判断してきた私が探すのは大変に困難を伴う作業だと思う。

元気だった頃の自分がまるで想像できない。

記憶にあるのは、去年の3月頃に仕事のストレスが限界に来ていてさすがに負の感情が外に漏れだしていたなということや、中途覚醒4回くらいで常にぼーっとしながらそれでもクオリティの高いアウトプットを出すためカフェインと根性でなんとかしていたこと。

今思うと相当狂っていたけど、在宅勤務で朝起きて連絡ないことや緊急対応必要ないことを確認してまた寝て、日中半分くらいしか仕事してなかったのが末期の頃。夜やって帳尻合わせてたけど、あの時の視野の狭さは凄いものがあった。

やりたいこと、すべきこと、色々な概念がぐるぐると回って、何もまとまらない。独身若年層男性という属性で規定されるすべきことを、身体的にも精神的にもできていない時点で、社会へ「適応」できていないと考えれば、自身につけられた病名にも納得がいくのかもしれない。