人生短し走れよ私

人生のピークを過去に設定するにはまだ早いんじゃない?

才能とはつまり、ROAである

こんにちは。最近寒すぎて、部屋ではエアコンがフル稼働しております。リモートワークもいい加減板についてきましたが、電気代がバカにならない感じになりそうで来月の請求が怖い私です。師走に突入しましたが、相変わらず体調が改善しないので文章でも書くこととします。

さて、才能というものについては古今東西様々な方々が様々な議論をしております。例えば先天的なものなのか環境によるものなのか、そういった研究は昔から行われていますし私も見聞きしたことがあります。こうした研究それ自体は学術的に価値がありますし、社会政策の立案に大いに貢献すると思われます。しかし、個人的にはあまりミクロ的な部分において示唆は感じません(先天的に決まるとして、貴方の意思決定に何か影響があるのでしょうか)。

そうは言っても、話題としては扱いやすいというか、皆さん持論がある領域のようです。ブログでも結果と過程について書いてみた記事が未だに多くアクセスがあるようで、皆さん関心度高いんだなあと思う次第です。

r-siesta823.hatenablog.com

 というわけで、さっそく表題にいきたいと思います。

ROAとは

いきなりの会計用語で恐縮ですが、ROAというのはReturn On Assetsの略です。総資産利益率とも呼ばれ、会社の総資産を利用してどれだけの利益を計上できたかを示す数値になります。大体当期純利益を総資産で除してパーセント表記で示すことが多いです。会計に詳しい人は釈迦に説法で申し訳ありませんが、同業種におけるROAの使い方としては、分析対象の会社がどの程度効率的に資本を使っているかを当該指標を用いて比較できます。即ち、ROAが高いということは資産を効率よく用いて利益を上げられていることになります。話がそれますが、ROAに限らずB/SとP/Lを使う指標は異業種間ではあまり役に立ちません。ビジネスの形態が異なるので、単純比較するのに適さないからです(例えば鉄道業界は固定資産を大量に保有していますが、コンサル業界では固定資産をそれほど持ってないと考えると分かりやすいかと)。

才能と努力の関係性

本題に入る前に才能について考えます。私たちが才能と呼んでいる無形の何かというものは、果たして何なのでしょうか。

一般に才能というのは表出された結果について語られることが多いです。努力と二項対立が生じる理由はおそらくこの部分にあるのではないかと思います。基本的に、結果というものに結びつく要素は努力と才能に二分され、努力は我々が後天的に積み上げられるもの、才能は先天的もしくはコントロール不能な領域にある何かという対立軸です。

今回はその二項対立を壊してみたいと思います。つまり努力と才能を同列に語らず、個別に考えてみようという話です。

努力は資産を積み上げる一連の過程

まず努力というものを考えます。結果を出すために必要だという文脈で使用されますが、もう少し精緻に考えると努力は行動を伴う何かを指すことが暗黙の前提かと思われます。例えば英語の学習のために毎日英会話30分、みたいなものです。

こうした行動の結果、私たちの中には英会話の時間数という資産が形成されると考えられるのではないでしょうか。まあなんでも良いのですが、基本的に努力はやればやっただけ何かしら私たちに蓄積されるものだと思います。当努力が結果に結びつくか否かは努力の方向性の正否や運等も絡んできますが基本的にやったことは残ります。

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例えばこんな感じです。こちらは10月下旬くらいの写真ですが、いつのまにやら3000分も英会話していたようです。

しかしながら、この数値は特段結果を保証するものではありません。英会話3000分したということが英語を流暢に話せるであるとかテストのSpeakingで良い成績を取れるとかそういうことを担保しないのは自明かと思います。

ここで会計的な発想を取り入れます。努力というのはB/S(貸借対照表)にヒットする概念であるという仮定を置きます。何でも良いですが、努力した分は確実に何かしら資産として私たちに蓄積され、B/S計上されていきます。

才能は蓄積された資産と結果を結びつける係数

ところで、この場合における結果は会計的にはP/Lのセグメント純利益と考えることができます。表出されたもので可視的なので、こちらも特段の不整合なく取り入れることが可能かと思います。あえて「セグメント」とつけたのは、努力によって蓄積される資産にはジャンル分けがあるからです。例えば会計の勉強していて英語ができるようになるのはおかしな話なので、一応セグメント利益としています。

ここでROAという発想が出てきます。即ち、努力によって蓄積された資産がどの程度結果に反映されているかという効果測定が可能になり、その指標がROAというわけです。個人的な見解ですが、この部分において私が仮定したROAが才能だと考えます。結果それ自体は目に見えるのですが、それに至るまで積み上げた資産は基本的に目に見えません。目に見えたとしても、上記のようにそれ自体が何か結果を担保するものではありません(蓋然性は高まるかもしれませんが)。一方、才能と呼んでいる何かも無形の概念であり、それも目には見えません。一般に才能は結果の表出に関わってくるという認識は自明かと思いますので、結果を出したことと才能があることに何かしらの関係式が立つことになります。

畢竟するに、努力によって蓄積された資産をどれだけ結果に変換できたかという係数が才能なのではないかという仮説です。この場合において才能はROAと言えるでしょう。

そもそも次元が違うのではないか

才能と努力は並行に語られることが多い中で、上記のように捉えると次元の違う話になるのではないかという話が今回の言いたかったことです。

私たちが観測できるのは結果であり、それ以上でもそれ以下でもありません。特に仕事になると努力の有無は二の次どころかなんの価値もない場合があります。あくまで結果のみが評価にさらされることになります。その結果というものは単純化すると二つの変数によって構成され、結果=努力の蓄積×才能という式が会計的には資産とROAで表現できるなあという話でした。

何を言いたいのかというと、才能の有無は結果に明確に反映されますが、結果自体は努力の蓄積で一定コントロール可能なのではないかということです。私事で恐縮ですが、私は語学の才能は他人と比較して本当に無いと言い切れます。ここで大多数の人間が「でも英語話せてるではないか」、「留学もできるくらい話せるではないか」とおっしゃるのですが、上記議論を見ればかみ合っていない部分が明白です。結果的にやれ留学だやれ英会話だという話にはなっていますが、そもそも私が議題にしているのは係数であって結果ではないのです。私がかけてきた英語への時間はそれはもう莫大なものでして、それだけやればこれくらいはできるよねと思っています(別に人に言うことでもないので何も言いませんが)。

同様に日本語も元来的には得意ではありません。今も行われているかは定かではないですが、私が小学生の頃は国語のテストで聞き取りがありました。日本語の会話だったかを聴いて解く問題なのですが、本当に苦手で毎回良くない点を取っていました。文章も下手でしたし、小学生の宿題レベルでも困っていた記憶があります。一方で小学生の時からそれはもう読書に読書を重ね、ディベートやらもかじり、議論や自分の意見の表明の練習を大量にしてきました。お陰で日本語が下手だった時代は家族しか知らない状況まで持っていけましたが、おそらくこうした蓄積なしに現状の日本語能力はなかったかと思います。

最後に示唆を出せればと思いますが、保守的にROAが不変と置いたとしても、努力の蓄積で一定レベルまでは到達できるというのが結論です。一万時間の法則というのはこうした仮定が暗に置かれているはずです。まあ一定レベルを超えると才能のある人たちが死ぬ気で努力する世界になるので、そこまで到達してしまうと意味なくなりますがね。

おわりに

才能と努力について会計的にアプローチしてみました。相変わらずあまり意味のある文章ではないですが、結果を見て才能と努力を同列に語るのは止めましょうやという話です。年齢が若いうちはインプット時間が制限されているので結果=才能や環境という議論が成立しますが、社会人にもなると今までやってきたことが相当程度高く積みあがっているので、一概に結果だけを見て軽々しく才能がどうたらこうたら言えないですねってことです。私の人生で唯一才能を感じたことはソフトボールで初挑戦したウィンドミル投法がやたら上手く、体育の時にずっとピッチャーやっていたというエピソードのみです。ほんとに唯一それだけです。何の意味もねえ。みんなも圧倒的努力で結果を出しつつまだ見ぬ才能の種を見つけてみよう。