人生短し走れよ私

人生のピークを過去に設定するにはまだ早いんじゃない?

勝った人より負けた人を誉めてあげよう認めてあげよう

おはようございます、こんにちは、こんばんは。寒くて諸々のやる気がなくなりつつありますが、皆さまお元気ですか。

負けた人ほど肯定が必要である

一般に何かの競争、まあ入試でもなんでもいいんですが、そこで称賛されるのは勝ちサイドにいる人たちです。受かっただ優勝しただ、私も凄いと思いますし、ジャンル問わず功績は十分に称賛に値すると思います。

でも光があるということは影があるということで。その後ろには死屍累々の負けた人たちがいます。例えば会計士試験の短答式試験は大体合格率10%なので、1人受かったら9人落ちてるわけです。今回はこの負けサイドにいる人たちの話をしたいと思います。

この私、多分同年代の中では人生における意思決定を豊富にしてきたのではないかと自負しております。両親が良い意味で放任だったこともあり、計画と予算申請だけ通過すれば割と好き勝手できる環境にありました。

好き勝手できるということは自由があるということです。意思決定の自由は決定者に相応の責任を負わせます。哲学者のフロムは『自由からの逃走』という本において、自由になった近代人の孤独感や無力感に言及しています。

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

 

まあそれは置いておいて、何かするということは、それに対して結果がもたらされることを受容せねばなりません。挑戦したら勝つか負けるか必ず白黒はっきりします。私もすごくたくさんの挑戦をして、まあまあの勝利とたくさんの敗北を味わってきました。

ここで、挑戦しないという意思決定も可能だとしたらいかがでしょうか。挑戦しなかったら、結果は返ってきません。そのため勝てもしませんが負けもしないんですね。先ほど会計士試験の話をしましたが、実は出願している人全員が試験会場に来て、さらに全科目受けているわけではありません。会場に向かう途中かもしれませんし、試験中かもしれませんが、一定数の人間が勝負を捨てて負けを回避します。そういう人たちをけなす権利は私にはありません。舞台は違えど、私も同様の行動を起こしたことがあります。つまり、結果を受け止められる人たちだけが挑戦するという意思決定をして舞台に上がれるわけです。どんな形式の何にしろ、負けるかもしれない中で挑戦するという心意気、それだけでも一つ凄いことなんですね。

一方で、挑戦したことが凄いと呼ばれるのは学生までが精々で、いや学生の間でもあまり言われないかもしれませんが、とにかく試行や意思決定そのものに焦点を当てて肯定してもらえるというのは年を経るにつれてなくなっていきます。いつも認められるのは勝利者です。こちらも成果を挙げた人間に称賛が集まるのは当然だと思います。

この状況を俯瞰すると、勝ちサイドは成果と称賛をもらえるのに負けサイドは挑戦したにも関わらず何ら対価をもらっていないという図式になります。そしてしばしば負けサイドの人間は、傍観している人間から無責任な論評や批判を受けることすらあります。これは個人的にあまり好ましい状況ではない思っています。

なぜなら、勝ちサイドの人間は挑戦に対して成果という対価をもう既に貰っているのに対し、負けサイドの人間は挑戦という勇気ある行動を起こしたのに何一つ貰えていないからです。言葉を選ばず言うと、勝ちサイドの人間は目標達成したという事実で十分肯定されているのであり、真にフォローが必要なのは全力で頑張ったのにダメだった人たちです。少なくとも挑戦した事実を肯定してあげたい。

このままでいいんだよ、という甘い言葉

私はよく書店に行くのですが、ここ5年くらいですかね、自己啓発本のコーナーには現状の自分を肯定してあげようという趣旨の本が数多く並ぶようになった気がします。自己啓発本やそれに準ずるビジネス本は個人的にあまり好きではないのですが、あそこにはその時その時の人々の需要が最も反映された本が置かれます。10から15年ほど前には脱オタ系の本が流行ってましたし、今は上記に加え発達障害系やHSP系の本も多いですね。

書棚を見る限り、近年のみんなの需要は何と言っても自己肯定なんですよね。しかも、このままの自分でいいという嬉しい言葉つき。ありのままの自分を肯定してあげよう、なんて心地の良い言葉なんでしょう。みんな自分を肯定してくれる何かを求めていて、しかも何の努力もしない自分でいいんだという夢のような状況を望んでいます。別にそういった人たちも否定はしません。私とは価値観が違うなあと思うだけです。

挑戦は自己否定を伴う

人が何かを決意する時、それは自分の何かを変えたい、超えたい、そういった感情が往々にして入ります。それはつまり一旦現状の自分をある一面において否定することを伴います。このままの自分で達成できることは目標になりませんし挑戦にもなりません。例えば私は飲酒の習慣はありませんので、休肝日を作ろう!と決意することはないです。

挑戦は自分を一旦否定しますが、結果が返ってきたタイミングで肯定の機会が訪れます。つまり、目標を達成出来たら自分を素直に褒められるはずです。一方で、達成できなかったら、自己否定だけ残ることになります。そこで効いてくるのが、「ありのままの自分を肯定してあげよう」です。負けたくなかったら挑まなきゃいいんですよ。結果が突き付けられることもないですし、自分が傷つくこともありません。そしてありのままの自分を肯定してあげれば完璧ですね。だからこそ、その誘惑に負けずに結果が返ってくる舞台に立った人間はそれだけでも凄いんです。

傍観者は好き勝手言ってくる

特に社会人になってからでしょうか。何か頑張ろうとしていると、部外者が好き勝手言ってきます。なんでそんな頑張るの?無駄じゃね?意味なくね?もうよくね?などど私もよく言われます。挙句失敗した日にはもう散々ボロクソ言われます。私はちょっと精神壊しましたが、

r-siesta823.hatenablog.com

そんな無茶した意味なかったじゃん馬鹿じゃねえのあほくさ(主旨)などと言われました。とまあ世の中失敗した人にはめちゃくちゃ厳しいです。だからこそ、挑戦したこと自体が凄いことなんだということを私は強く主張したいです。井の中の蛙が井戸を出て戦おうとした、結果をたたきつけれられる覚悟をした、それが凄い。私も幾度となく戦ってきたので勝ち負けどちらも経験してきまして。

r-siesta823.hatenablog.com

学習性無力感すら覚える中で自分を超えようとするのは正直めっちゃ辛い。平日の仕事終わりに英語ニュースを無限に聴くのはごめんだ。休日は寝たい。のんびり過ごしたい。母国語で会話したい。グラム1円の肉よりマシなものを食べたい。そんな状況でテストを受けて、周りからは馬鹿じゃねえのと言われつつ結果をたたきつけられるのを繰り返してきています。私はもう慣れていますし特段痛くも痒くもないのですが、きっとそんな人ばかりじゃないでしょう。

おわりに

私の尊敬する人が仰っていたことに、決意しただけでそれは半分叶ったようなものである、という言葉がありました。結果を受け止めることを是とし、自分の殻を破ろうとしたのは十分凄いことです。もし周りに何かに挑んで失敗してしまった人がいたら、もう一回何かに挑めるようにその行動に最大限の称賛を差し上げたい。そんなことを考えながら日々生きています。