人生短し走れよ私

人生のピークを過去に設定するにはまだ早いんじゃない?

「結果がすべて」と「過程が大事」

結果と過程のどちらが大事かという話題は、努力は才能説と同様に色々な意見があります。皆さんはどうお考えでしょうか。

「結果がすべて」とは

「結果がすべて」論者は、過程は最終的な結果を出すために必要な要素であって、どんなに過程が素晴らしくても結果がでなければ無意味だというスタンスです。まあ一理ありますね。努力するのは何かしらの結果を得るためであり、結果に執着しない努力に意味がないというのは納得できます。逆に結果が出れば途中の過程にそこまで重きを置かなくてもよいということになります。

「過程が大事」とは

「過程が大事」論者は、その目標に向かってどれだけ自分が頑張れたか、熱心に取り組めたかを重視します。最終的な結果は様々な要因によって左右されるため、結果がついてくるかどうかは自分の努力だけではどうしようもないこともあるということも考えているかもしれません。これもまた一理あるような気がします。

結果=対外な点・過程=対内な直線

私は結果を、対外的なものかつ一点で表せるものじゃないかと思っています。具体的に言えば、「〇〇に合格した」という結果は周りの人が直ちに確認、評価できるという意味で対外的で、合格掲示板を確認した瞬間に確定するので点で表せるという感じです。結果重視派は、特に対外的な部分を重視しているように思います。

対して過程は、対内的で直線のようなものかなと思います。勉強なりなんなり、それなりの時間をかけて取り組んでいたとして、それは周りに見えてきません。嘘も容易につくことができます。そういう意味で対内的だと思います。そして、その努力は一定の時間投入し続ける訳ですから、直線のように表せるかなと考えています。

直線の先に点があって、その点が見えると、周囲の人々はその点の前に直線があったんだろうと想像する。しかしそれは想像にすぎなく、真の直線はその人にしか見えていない。点が全く見えない場合、周囲の人々はまったく直線がないものだと想像するが、実は長い直線があるかもしれない。私は過程と結果をそのように考えています。

結局どっちが正しいのか

ダブルスタンダードが許されないとするならば、私は結果がすべて派に立たざるを得ません。やはり過程は結果のために存在します。仮に過程が大事だとして、結果の出なかった過程は本当に称賛に値するものなのでしょうか。厳しいことを言うと、達成確率が低い目標設定から、やや楽観的過ぎるスケジュール、目標までの執念などなど、改善すべき部分はたくさんあるのではないでしょうか。こう考えると、過程は時として結果より大事な場合があります。振り返ることで次の結果を出すための改良ができます。

議論が迷走してきたため整理します。まとめると、結果は大事です。しかし大事な結果を出すために過程を反省するのも大事です。

したがって、結果が出た人は過程を重視し、結果が出なかった人こそ結果にこだわる必要があると考えます。過程と結果は連動しているため、どうしてもどちらかに割り切ることは難しいです。しかし、過程重視を言い訳に使っていてはいつまでも可視的な点は見えてきませんし、目に見える結果だけを見ていては、いつしか結果に至る直線を描けなくなると思います。