人生短し走れよ私

人生のピークを過去に設定するにはまだ早いんじゃない?

概念を言語化すること

何かを表現すること、特に言葉によって定義することの価値について書きます。

ブログでも日記でも――何なら話すことでも良いのですが、活字として残る方が望ましい――思いを言葉にすることは、我々が義務教育から指導をされていることかと思います。例えば読書感想文。コンクールでの受賞には誰かを殺す必要があるとかないとか聞きますが、感想という思いを言葉にして表現することという観点から見ると言語化の良い練習になると考えています。

頭の中で思っていることの言語化と外への発信、これは大きく2つの観点で重要だと考えます。

  1. 対自分:曖昧模糊とした何かを「既知の概念」に固定でき解像度が上がる
  2. 対外:言葉によって規定することで概念を具体的に共有できる

曖昧模糊とした何かを「既知の概念」に固定でき解像度が上がる

私は精神疾患を持っているわけですが、結構なんだかよく分からないけれど調子が悪いということがあります。これは自律神経系の不調から現れていることが多いと思われますが、この時の体調への解像度はかなりふんわりしていて低いと言えるでしょう。

ところが、例えば倦怠感があるだとか、微熱が出ているようだ、など言語化を行うことによってふんわりした何かを既知の概念に当てはめることができます。次項にもつながりますが、言葉によって曖昧なものやことを一旦言葉にして表現することは、自身における落とし込みができる点で有用だと考えます。

言葉によって規定することで概念を具体的に共有できる

また、対外的には自身の思い・考え・意見等を共有するために言葉による言語化は不可欠な行為です。所属している業界や団体、社会階層によって言葉の意味は異なるため、本当に相手と認識が一致しているかについては厳密な確認が必要なものの、ファジーなレベルにおいては言葉により概ね考えの共有は成功するでしょう。

もう少し拡張すると、「名づけ」はよく分からないものに一定の規定や定義を与える行為と考えられます。これは今現在明確に分かっていないことに対しても適用可能です。これは化学を専攻していないとピンとこない例えになるかもしれませんが、未発見の重元素に周期表上「ウンウン○○(Unun-○○)」と命名することで見つかっていない「何か」の概念を他者と共有して議論することが可能となります。他者との概念の共有という文脈において、それが仮置きだったとしても、言語化による定義はめちゃくちゃ重要です。そういえば化学専攻だった時期もありましたね。ははは。

最近文章を紡ぐことが多くなってきたので、たまにはこんな記事も簡単に。