人生短し走れよ私

人生のピークを過去に設定するにはまだ早いんじゃない?

いい感じのゆらぎとパチンコの話

休職してからというもの、とにかく考えすぎるな、休めと言われています。

一般的には楽だろうと感じる休職生活ですが、金ががりがり減っていく、キャリアはストップ、そもそもそんなに休んでいていいのかなどなど、何もしないことへのストレスが半端ないです(というか休めと言われて休める人間は休職まで追い込まれないと思いますが)。

そんな背景もあり、年始から色々と趣味というか、時間潰しを試しています。でも世の中の殆どは頭を使わなさすぎるか使いすぎるかのどちらかに振れる気がするなと思っている次第でして。

後者は当然頭を使って考えているので目的を達成しないのは当然として、前者についても脳がスカスカだと上述した将来の不安などをオートマチックに思考し始めるのでなかなか難儀です。

やってみたことと実感を下記に書いてみます。

  • ゴルフ:左利きなのに右打ちで始めたのでめちゃくちゃ頭を使う
  • ランニング:走っているだけなので脳がスカスカになる
  • 執筆:文章を書くので当然に頭を使う
  • 読書:文章を読むので当然に頭を使う
  • 競馬:結果を予想するので当然に頭を使う
  • ソシャゲ:効率を求めにいくので頭を使う
  • 散歩:目的地がないので脳がスカスカになる
  • サウナ:座っているだけなので脳がスカスカになる
  • 喫茶:コーヒー飲んでるだけなので脳がスカスカになる

意外や意外、スポーツみたいなスカッとする系のことでも頭を使ったり使わなかったりでいい塩梅のものがありません。この状況を防ぐためには、程よく脳が動いているけれどもそれが負荷にならない何かを探す必要があります。そして見つけたのがパチンコだったという話です。前説が長くなりましたね。

ゆらぎの存在

特段パチンコにのめりこんでいないし調べてもいないので、記載に虚偽が含まれる可能性がありますが、本質的なことではないのでご勘弁願います。

パチンコという遊戯――ギャンブルと表現しない理由は後ほど説明する――はある種のゆらぎを大量に秘めていると感じます。

まず周囲の環境ですね。パチンコ屋さんはうるさいです。うるささは電子音だったり玉の落ちてくる音だったり色々ですが、怒鳴り声のような不快な音ではありません。全く静かではないのがミソで、脳のリソースをほんの少し持っていかれます。

またリールを同じだけ捻っているのに抽選機に入ったり入らなかったりします。発射スピードが同じなら同じところに入るはずなのに、そうじゃない。そこに微妙なゆらぎを感じ、脳がまた少し使われます。

そして演出。私の理解では、パチンコは演出の有無に関わらず結果が決まっているので当たるかどうかは運になります。これが競馬と違うところで、人為的に介入できる点がないのでその点において脳を使うことがありません。したがって、強い保留や演出は見て楽しむだけのものになります。結果は確定しているので、演出で無駄に一喜一憂することはありません。しかし、いい感じに盛り上げてくれるので、目から入る情報は脳をほんの少し刺激します。

当たったら打ち方が変わりますが、これもゆらぎになります。右打ちの時は球数を数えて無駄に打たないように調整するので、いい感じに少しだけ脳を使います。

こうした「いい感じ」に「軽く」「非断続的」に脳を使う「遊戯」は他に見当たりません。適度にゆらぎのある脳への刺激は将来への不安を考える余裕をなくせます。一方で真剣に何かを考えなくて良いので、脳を休ませるには最適だと思いました。

この考え方って、パチンコをギャンブルとして捉えている人は絶対思いつかない発想だと思うんですね。彼ら彼女らは演出の強さにいちいち一喜一憂するらしいですし。私は演出が長いと手を止めてる時間が長くて遊べる時間も長くなるなあとしか思わなく、特にそれ以上はどうとも思いません。

使っているお金は遊戯料として上納する気満々ですし、高騰する電気代とか台の維持費、あと空気清浄機代?とか馬鹿にならないと思うので、営業してくれてありがとう!みたいなノリで稼ごうとか儲けようとか全く考えないです(まだ数回だけですが乏しい予算を使い切って帰ってます、ほんとに稼げる人いるんか?)。

個人的には張り詰めた脳を休める時間を金で買っている感じで、知人は共感してくれたので、ごくわずかですが感覚を共有できる人もいるらしいです。曰く、真面目な人ほどハマりやすい要因とのこと。

お金がないのでそんなに頻度高くできることでもありませんが、思わぬところに休息場所が存在しました。今日書きたいことはこんな感じです。

なんかランキングが上位になっててびっくり。

休職日記⑤

最近は夕方に体調が悪くなる傾向。相変わらず夢見も悪いし頭痛や不安感も強い。

例年では花粉症の症状は出ないのだけど、今年は割と目に出ているから外に出かける気にもなかなかならない。

漠然とした体調の悪さに対してどのように対処すればいいのか、私は未だにその術を知らない。言語化できないから人にも訊くことができない。

現場から離れて早数か月が経つが、どうも良くなっている気配がないというのがもどかしい。三寒四温、三歩進んで二歩下がる的なものだろうか。

周囲からは考えすぎだと言われるからあまり考えない日々を送っているつもりなのだが、思考というものはオートで行われるから意図的に止めることも難しく。

私は野球が好きなのでWBC観てる時は専念出来て良い。自分がスポーツする時は色々考え込んでしまうから、観戦くらいが適切な距離感だと思う。

ハマる気もないしその兆候もないけど、パチンコがほんと丁度いい思考停止ツールだと気付いたのほんと興味深い。今度文章にしようと思う。

概念を言語化すること

何かを表現すること、特に言葉によって定義することの価値について書きます。

ブログでも日記でも――何なら話すことでも良いのですが、活字として残る方が望ましい――思いを言葉にすることは、我々が義務教育から指導をされていることかと思います。例えば読書感想文。コンクールでの受賞には誰かを殺す必要があるとかないとか聞きますが、感想という思いを言葉にして表現することという観点から見ると言語化の良い練習になると考えています。

頭の中で思っていることの言語化と外への発信、これは大きく2つの観点で重要だと考えます。

  1. 対自分:曖昧模糊とした何かを「既知の概念」に固定でき解像度が上がる
  2. 対外:言葉によって規定することで概念を具体的に共有できる

曖昧模糊とした何かを「既知の概念」に固定でき解像度が上がる

私は精神疾患を持っているわけですが、結構なんだかよく分からないけれど調子が悪いということがあります。これは自律神経系の不調から現れていることが多いと思われますが、この時の体調への解像度はかなりふんわりしていて低いと言えるでしょう。

ところが、例えば倦怠感があるだとか、微熱が出ているようだ、など言語化を行うことによってふんわりした何かを既知の概念に当てはめることができます。次項にもつながりますが、言葉によって曖昧なものやことを一旦言葉にして表現することは、自身における落とし込みができる点で有用だと考えます。

言葉によって規定することで概念を具体的に共有できる

また、対外的には自身の思い・考え・意見等を共有するために言葉による言語化は不可欠な行為です。所属している業界や団体、社会階層によって言葉の意味は異なるため、本当に相手と認識が一致しているかについては厳密な確認が必要なものの、ファジーなレベルにおいては言葉により概ね考えの共有は成功するでしょう。

もう少し拡張すると、「名づけ」はよく分からないものに一定の規定や定義を与える行為と考えられます。これは今現在明確に分かっていないことに対しても適用可能です。これは化学を専攻していないとピンとこない例えになるかもしれませんが、未発見の重元素に周期表上「ウンウン○○(Unun-○○)」と命名することで見つかっていない「何か」の概念を他者と共有して議論することが可能となります。他者との概念の共有という文脈において、それが仮置きだったとしても、言語化による定義はめちゃくちゃ重要です。そういえば化学専攻だった時期もありましたね。ははは。

最近文章を紡ぐことが多くなってきたので、たまにはこんな記事も簡単に。

JAXAのロケット報道について思ったこと

先月試みたものの、途中で断念したJAXAのロケット打ち上げが昨日再度行われ、今回はまた違う原因で失敗に終わったとのこと。

www.nikkei.com

これからの宇宙開発において日本の技術を高めていくことが必要とかいう政治的理由を抜きにしても、私は宇宙が大好きなので、こういう取り組みはワクワクします。

一方で、各社の報道を見ていると「失敗」という言葉が強調されている気がしました。満を持しての打ち上げということで期待度の高さの裏返しとも感じ取れますが、今後の宇宙開発に課題、といったネガティブなトーンでの報道が目立っていた印象です。

国の事業としてやっているわけで、そこには一定公金も含まれていることや、今までの成功率の高さから報道がネガティブになるのは仕方のないことかもしれません。

しかし、こうした新しい取り組みに対して失敗したことを強めのメッセージとして報道するのは保守的すぎるきらいがあると思います。

ベンチャー企業にいたことがある経験からくるものかもしれませんが、新規の取り組みなんて失敗してナンボというか、失敗からどれだけ学んで次につなげていくかということに重点が置かれるべきだと感じます。

宇宙開発の技術は将来的に必要となるとはいえ、今今で必要な投資ではありません。日本経済を考えると目先の経済政策に注力すべきだと考える人々も一定数いそうな気がします。この状況下で失敗だ今後に悪影響だといったニュアンスの報道は、こうした将来への種まき投資をシュリンクさせる要素になりえるのではないかと危惧しています。

打ち上げが上手くいかなかったという事実は変わらないですが、それを伝える姿勢がもっとポジティブであれば良いのにと思う次第です。

本を書くことにした

やりたいことがない、すべきこと・すべきでないこと軸で全ての事象をぶった切って生きてきた。

休職で(良い意味でも悪い意味でも)頭に余裕ができたから、過去のやりたかったと思われることを振り返ってみたら、全てすべきこと軸で判断してきたって話は前に書いたかもしれない。まあとにかくわざわざ生きることを選択してまでやりたいことってのが私には存在しなかった。

 

と最近まで思っていた。

 

そんな話を知人としていたのだけど、そこでやりたいことの片りんを見つけることができた。

私は解釈が好きだ。コンテンツに包含される製作者の隠された暗喩を考えるのが好きだ。既存の概念を新たな切り口で切り取り断面を観察することが好きだ。世界の解像度を上げることが好きだ。

そもそもブログを書いていたり小説を執筆したりしていたこともあるわけで、恐らくCreationとInterpretationは好きなものと考えるのが自然ではあったのだけど、あまりにもすべきことが多すぎて見えなくなってしまっていた。

これをビジネス目線で考えると、MaaSみたいなことになろうか。そういった面で物事をとらえてしまうと畢竟マネタイズのための解釈を強いられるわけだが、そうなるとやりたいことはすべきことに変貌してしまう。

したがって、上記を小さく始めようと思う。kindleならタダで出版できるらしいので、とりあえず本でも書いてみようかなって。自身のコンテンツを一旦アウトプットして、Creatorとして一歩を踏み出したい。

休職日記④

最近は、用事がないと外に出るどころか着替えることすら覚束ない。

夢の中で何度も何度も夢を見ていて、夢と現の間を行ったり来たりする時間が多くなった。いっそ眠ったままそんな状況が続いてしまえば楽なのにと、ふと思ったりもしている。

先日久々に宿泊を伴う遠出をした。問題なくこなせるか体力的に怪しかったけど無事に楽しむことができた。

やりたいことが見つからないと彼女に相談してみたら、過去の積み残しを考えてみたらそこにヒントがあるのではと助言をいただいた。もっと自分が純粋――人や社会の期待に応えることを第一に考える前――だった頃に考えていたことはなんだろうか。物心ついた時には、もう既にすべきことの意識があったように思える。

貴方のしていることの中にもやりたい要素が大きいものもあるのに全てすべきことになるように自分の中で理由付けをしている。こんなやり取りもあった。これもそうだなって思った。そういうのもある。

でも、死ねば味わわなくても良い苦を感じてまでしたいことって今のところないんだよな。収入がないから競馬とかほとんどやってないけど別に禁断症状出てないし。

こんなことつらつら書いてると、また考えすぎだなんて言われてしまうだろう。でも、もう素朴にやりたいことを見つけるという感覚ではなくて。

この世に生きているだけで感じなくてはならない嫌なことを受けても尚やりたいことを、すべきすべきでない論で全てを判断してきた私が探すのは大変に困難を伴う作業だと思う。

元気だった頃の自分がまるで想像できない。

記憶にあるのは、去年の3月頃に仕事のストレスが限界に来ていてさすがに負の感情が外に漏れだしていたなということや、中途覚醒4回くらいで常にぼーっとしながらそれでもクオリティの高いアウトプットを出すためカフェインと根性でなんとかしていたこと。

今思うと相当狂っていたけど、在宅勤務で朝起きて連絡ないことや緊急対応必要ないことを確認してまた寝て、日中半分くらいしか仕事してなかったのが末期の頃。夜やって帳尻合わせてたけど、あの時の視野の狭さは凄いものがあった。

やりたいこと、すべきこと、色々な概念がぐるぐると回って、何もまとまらない。独身若年層男性という属性で規定されるすべきことを、身体的にも精神的にもできていない時点で、社会へ「適応」できていないと考えれば、自身につけられた病名にも納得がいくのかもしれない。

休職日記③

調子が悪くて一日横になってた。前日出かけたり気を張るイベントがあったりすると翌日の体調が崩れる傾向にあるっぽい。

薬飲まないと眠れないんだけど、この薬に生かされている感じって凄いね。合計でたった1gにも満たない睡眠薬精神安定剤やその他もろもろがないと、死へのアクセルを踏みっぱなしになるんだよ。寝られない、食べられない、動けない。緩やかだけど確実に死に向かっていく感じ。今やってるのって程度の差こそあれ延命治療のそれと変わらないところがあると思う。

ほんの数センチまで死ぬことを意識するところに到達したけど、今は多少遠くなった。休職してなかったら多分今頃は過労死か自殺かであの世に逝っていたかもしれない。

休職なんてする気はさらさらなくて、というのも、個人的に男性は稼いでナンボだと思ってるし、キャリアを止めたくもなかったし。ああこれポリコレ引っかかるか。別に他人に押し付けようなんて思ってないし、これ私個人の価値観なんでお気になさらず。なんかこういう話題にかみつく人たちって全方位にかみついてく誹謗中傷スタイル取ってる傾向あるし、議論にならんからあまり好きくない。

休職したのって最終的に彼女が休めって言ってくれたからなんだよな。なんか、ああもう踏ん張らないでいいのか俺はって妙に得心したんだよ。今までの人生って振り返ると他人の人生を生きているなと総括できて。こうするべき、しなければならないって答えが先にあって、後付けでそれっぽい理由をつけて自分を納得させてきた。

たくさん勉強して良い成績を維持して給付で奨学金を取って親孝行する良い子。国を良くしたいと言って官僚を目指す良い子。社会で活躍するために自己成長の意欲を失わず、積極的に手を挙げてフィードバックをもらう良い子。常に部下に気を配り、仕事を適切に管理しつつ、上司の仕事を先回りしてこなしていく良い子。みーんな社会から期待されている自分を演じていただけで、そこに好きとかやりたいとかそういう主体的なものはなかった。いやあったけどあれは認知的不協和を何とかするために自己正当化をしただけだった。まあ、好奇心は強めだから勉強は好きでやっていたって言えるかもしれないけど試験はそうじゃないよね。

彼女に人生やりたいことやればいいって言われて考えて、あー自分の人生を生きてないって思ったね。他の親友――と私は認識しているが相手がそう思っているとは限らない――や家族兄弟より出会って日が浅いはずなのに、その言葉は誰よりも説得力を持って私の認知の歪みを指摘していた。

物心ついた時から社会で役に立つ人になるってマインドを持たされ続けてきて、努力の美徳を説かれてきた人間からすると、正直今の状況って裏切られたって感じ。努力し続けて頑張った結果ぶっ倒れて、その上頑張らなくてもいいんだよって、私のアイデンティティがなくなるくらいのインパクトがある。

割と近い関係の人間に恩知らずのカスがいるんだけど、その日暮らしをしていて貯蓄なんて全くしてない。なのに楽天的――に生きているように見えるだけで実は深刻な悩みを抱えているのかもしれないが私には認知できない――なのは尊敬に値する。少しばかり賢くなった私は、将来の不安でいっぱい。一応食える資格を取ってるのに、将来シンガポール辺りに出稼ぎに行くことになるんじゃないかとか考えてる。

マクロ経済環境とか日本の競争力とかその中での自分の専門性の位置づけだとか、知らんでも良いことを知ってるとシンプルに生きづらくなる。何も知らんで政府に文句言うだけの人間の方が楽に生きてるかもしれない。そういや無産市民とかいうのを世界史で習った気がする。

病気のこと調べてて、診断受けるほどじゃないにしてもASDADHDの気質が少なからずあると思った。こだわり強いし人間関係上手くいかないこと多いし。過集中で時間を忘れることざらだし、To Doリスト使わないとやること忘れるし。こういう特性を持っていながらも社会にある程度適応したから診断がくだらないというか、調べるまでこんなに当てはまりが良いなんて思わなかった。上手く擬態してたんだな私は。