本当の気持ちは言葉ではなく行動に現れる
表題で結論を言いたいことを言えているので、今回もさらさらと文章を紡いでいきましょう。
言葉を解する貴重な生き物である人間は、話す――SNSでコメントを投稿すること等も包含する―ことで意思を伝えることがあります。
今私が書いている記事もその活動の一部と言えます。この記事に書いていることを人に向けて話せばそれは言葉を通じた意思の表明になるからです。心に残るキャッチフレーズが多数存在するように、時として言葉は人の心を強く動かします。
コミュニケーションの一手段としての言葉の力を否定する気は全くなく、むしろ言外のことをどれだけ察することができるかという日本特有の文化はあまり好きではないくらいです。しかし、言葉を発する際に消費するリソースは限りなく小さいことも同時に着目するべき点だと感じます。言うだけはタダというやつです。
例えば、今の私の境遇を心配してくれる人はまあまあ多少はいるのですが、何かをしてくれている人になると相当数が限られます。よく食事に誘ってくれる親友や時間を費やしてくれる方々には感謝してもしきれません。一方、ゆっくり休んでというような言葉をかけてくれてもそれっきりな人も大勢いて。コメントくれるのもありがたいのですが、やっぱり言葉ひとつだけというのは軽く、重要性も低いのだなって思う次第。手作り信仰はまるでありませんが、SNSの発達によってメッセージは秒で送れるので、かけられた時間を鑑みてもとりあえず一言言っとくかという温度感を覚えてしまうのは私だけでしょうか。
職業がタイムチャージ系なのもあって、私は物事の価値判断に際し費やしてくれた時間やその他リソースを参照する癖のようなものがあります(何度も言いますが手作り信仰はありません)。故に、己が時間を費やして何かをしてくれた時はそれこそインスタントな言葉より何千倍の価値を感じますし、その恩に報いたいと思います。
なお、多くの経験を踏まえた1つの言葉にはリソースがかかっているという考え方もあります。私は専門職の人間なので、仕事で使う言葉についてはこちらの発想です。3秒の返答に10年分の経験が詰まっていることも多々あるのでそういった話はまた別のベクトルになるかなと。
最近は人のご厚意に甘えることが多いので特に思いますが、言葉だけの人と行動が伴う人ってきっちり区別がつく感じです。別にそれが悪いことだとは思いませんが、私の彼らにとっての重要性の高低は言葉では測ることができず、行動によってのみ測られると強く思うようになりました。
今日も少し大きなLINEグループで入籍しましたという投稿と多数のおめでとう返信が並ぶ茶番を観測しましたが、投稿者にとって重要な人は披露宴に呼ばれるでしょうし、祝意を本当に伝えたい人は何かしら行動を起こすのではないかなと思います。現在の私は人の幸せを心から喜べるような精神状態ではないのであまり精神衛生がよろしくないのですが。
特にオチはありませんが、強いて言うなら何か思うことがあれば言葉と共にしっかり行動を起こして顕在化させていきたいというところでしょうか。
本当に体調が悪いなあ。