人生短し走れよ私

人生のピークを過去に設定するにはまだ早いんじゃない?

知人の死に直面して

今年に入って、もう2人の知人のような関係の人が亡くなりました。1回目は留学中で、2回目は最近です。この知人のような関係というところが普段と違うところです。私はまだ若いので、周囲の同年代の友人の訃報にはまだほとんど接したことがありません。一方ニュースでは毎日様々な方が様々な理由で亡くなっていますが、まったく知らない人であるため、そこまで考え込むこともありません。知人のような関係だからこそ、その死には無関心ではいられず、さりとて感情的に悲しむこともないのです。

人の命というものは非常に儚いと、こうした訃報に接するたびに思います。生前どのようなことをしていても、死はいつか訪れます。死後の世界については解釈が分かれますが、今の生というものはいつか必ず失われてしまうのです。特に若い方が亡くなってしまった時に強く実感します。自分も今日の夜に死んでしまうかもしれない。明日かもしれないし、80年後かもしれない。だから何だといえばそれまでですが、自分という存在がこの世から消えてなくなってしまうというのはどんな感じなんでしょうね。

死ぬのが怖いかといえば、私はそんなに怖くないかなと思っています。ただし、今はやり残したことが多いので、死ぬのはまだまだ先がいいなあとは思いますが。死ぬことそれ自体にそれほど恐怖は抱いていません。というのも、私は無力だと思っているからです。どっかでまた記事にしたいと思いますが、そんなに私は凄い人でもないですし、社会にとって代替不可能な人間でもないです。もしここで命が絶たれてしまうとわかったら、もちろんしばらくは怒りや悲しみに囚われてしまうでしょうが、私の命運もここまでかと受け容れられると思っています。

よく明日死ぬと思って今日を生きろって言いますね。それくらいの覚悟をして生きると、毎日が充実させられそうです。まあ本当に明日死ぬことが分かったら、今すぐ官庁訪問の準備なんかほっぽって、好きな人に思いを伝えるなり美味いもの食べに行くなりします。現在の行動はいつ死ぬかわかっていない状態での最適な行動になるわけです。たとえ下積みの日々で死んでしまっても、その人は間違った行動なんてしていないと思います。

何を書こうとしたのか、よくわからなくなってしまいました。私も死というものに触れて、やや動揺しているのかもしれません。考えても死というものが消えてくれるわけではありませんが、若いうちから考えておくと突然の死またはそれに準じた出来事に動揺しなくてすみそうです。