人生短し走れよ私

人生のピークを過去に設定するにはまだ早いんじゃない?

執筆の進捗の話③

執筆の話の続きです。過去記事は下記です。

r-siesta823.hatenablog.com

ブログを書くのも随分ご無沙汰となってしまいましたが、本を書くのにリソースを割いていたのが一番の要因でした。下記の通り、無事初稿を完成させることができました。

約9万文字ということで、ビジネス書には十分な文字数を書くことができました。思考の言語化・表現の試みとしては頑張った方ではないかと自分で自分を褒めています。セルフレビューを行い、必要に応じて図表を挿入して、表紙を作成したらKDPにて出版したいと思います。5月上旬には世に出したいですね。百万部売れてFIREしたい。

 

執筆の進捗の話②

執筆の話の続きです。

 

 

とりあえず順調に書いています(前回の記事から10日程度でプラス1万5千文字)が、さすがに段々辛くなってきました。

なんでかって言うと、最初の1/3は割と骨格段階でしっかり作りこみをしていたのですが、今書いている部分は表題しかないからです。さすがに何万文字の単位になると同じような話をしていないかのチェックも入ってくるので、一表題につき1500文字程度のブログのノリでもペースが落ちてくることがわかりました。

見返すにしてもA4用紙で35枚もあるのでなかなかタフな作業。校正者もいないので、表題からトピックを3つ頭出しする作業をして効率性を高めようと考えています。

短いですが今日はこの辺りで。

AIと一緒に記事を書いてみる①

AIが色々と便利になってきてまして、文章を書くにあたって特にChat GPTは本当にいい壁打ち相手になってくれています。

そこであえてカテゴリーを分けて、AIに助力を仰いで5分程度で書いた記事を公開していきたいと思います。結局は使いこなせなくては意味がないので、こうして時間制限を設けた上で適切な文章を書けるように私のリテラシーを高めていく意図です。適切に質問を投げかけ、素案を出力してもらい、内容を修正・校正してまともに読める文章を作成します。

本日のお題は「毎日のルーティンを変えることの大切さ」です。

―ここから―

「毎日のルーティンを変えることの大切さ」について考えてみました。

毎日同じことを繰り返していると、モチベーションが下がったり、マンネリ化したりすることがありますよね。特に今は新年度。心機一転何かに取り組もうとされていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。そこでご提案したいのが、毎日のルーティンを変えることです。これにより、気分や生活リズムをリフレッシュし、新しい発見や楽しみを見つけることができます。

たとえば、早起きする、別のルートで通勤する、新しいレシピを試す、運動をする、趣味に時間を費やす、友人と違う場所に出かける、などの方法があります。これらの変化が、日常生活に新しい刺激を与え、生活の質を向上させる効果を見込めます。

毎日のルーティンを変えることは、何か新しいことにチャレンジすることでもあります。新しいことに挑戦することで、自己成長や学びが増えることもあります。また、自分がやってみたかったことを実現することで、達成感や自信につながることもあるでしょう。

ルーティンの具体例をもう少し見てみましょう。

  1. 朝のルーティン:毎朝同じ時間に起きる、ストレッチやヨガをする、朝食を食べる、読書する、メディテーションをするなど。
  2. 運動のルーティン:毎日同じ時間に運動する、同じ種目やメニューでトレーニングする、運動前にストレッチをする、運動後に栄養補給をするなど。
  3. 食事のルーティン:同じ時間に食事をする、栄養バランスのとれた食事をする、食前に水を飲む、食事中はテレビやスマホを見ないなど。
  4. 睡眠のルーティン:毎晩同じ時間に寝る、就寝前にリラックスする、就寝前にスマホやパソコンを見ない、就寝前に本を読むなど。

これらのルーティンや習慣は、健康やストレス解消、自己成長などに効果的です。ただし、個人によって合う合わないがありますので、自分に合ったルーティンを見つけることが大切です。

最後に、毎日のルーティンを変えることは、ストレスを解消することにもつながります。ストレスは、心身に悪影響を与えることがありますが、新しいことにチャレンジすることでストレスを解消し、心身ともに健康的な状態を維持することができます。

毎日のルーティンを変えることは、簡単なことですが、効果的な方法です。日々の生活に新しい刺激を与え、自己成長や健康維持にもつながるので、ぜひ試してみてください。

―ここまで―

本日4分05秒にて作成しました。

 

執筆の進捗の話①

色々とあって本を書いています。

r-siesta823.hatenablog.com

現状ですが、アウトラインは全て完成して本文の方を絶賛ポチポチ中です。

まだ本論の1/4程度しか進んでいないのですが、骨組みはしっかり組んであるのでブログの記事を毎日書くようなスピード感でいければ4月中には初稿が出来上がりそうです。困難は分割しろという本にも入れる予定の内容をフル活用しています。

こっちを進めるとブログ記事の更新ができないのがトレードオフですね。

本当の気持ちは言葉ではなく行動に現れる

表題で結論を言いたいことを言えているので、今回もさらさらと文章を紡いでいきましょう。

言葉を解する貴重な生き物である人間は、話す――SNSでコメントを投稿すること等も包含する―ことで意思を伝えることがあります。

今私が書いている記事もその活動の一部と言えます。この記事に書いていることを人に向けて話せばそれは言葉を通じた意思の表明になるからです。心に残るキャッチフレーズが多数存在するように、時として言葉は人の心を強く動かします。

コミュニケーションの一手段としての言葉の力を否定する気は全くなく、むしろ言外のことをどれだけ察することができるかという日本特有の文化はあまり好きではないくらいです。しかし、言葉を発する際に消費するリソースは限りなく小さいことも同時に着目するべき点だと感じます。言うだけはタダというやつです。

例えば、今の私の境遇を心配してくれる人はまあまあ多少はいるのですが、何かをしてくれている人になると相当数が限られます。よく食事に誘ってくれる親友や時間を費やしてくれる方々には感謝してもしきれません。一方、ゆっくり休んでというような言葉をかけてくれてもそれっきりな人も大勢いて。コメントくれるのもありがたいのですが、やっぱり言葉ひとつだけというのは軽く、重要性も低いのだなって思う次第。手作り信仰はまるでありませんが、SNSの発達によってメッセージは秒で送れるので、かけられた時間を鑑みてもとりあえず一言言っとくかという温度感を覚えてしまうのは私だけでしょうか。

職業がタイムチャージ系なのもあって、私は物事の価値判断に際し費やしてくれた時間やその他リソースを参照する癖のようなものがあります(何度も言いますが手作り信仰はありません)。故に、己が時間を費やして何かをしてくれた時はそれこそインスタントな言葉より何千倍の価値を感じますし、その恩に報いたいと思います。

なお、多くの経験を踏まえた1つの言葉にはリソースがかかっているという考え方もあります。私は専門職の人間なので、仕事で使う言葉についてはこちらの発想です。3秒の返答に10年分の経験が詰まっていることも多々あるのでそういった話はまた別のベクトルになるかなと。

最近は人のご厚意に甘えることが多いので特に思いますが、言葉だけの人と行動が伴う人ってきっちり区別がつく感じです。別にそれが悪いことだとは思いませんが、私の彼らにとっての重要性の高低は言葉では測ることができず、行動によってのみ測られると強く思うようになりました。

今日も少し大きなLINEグループで入籍しましたという投稿と多数のおめでとう返信が並ぶ茶番を観測しましたが、投稿者にとって重要な人は披露宴に呼ばれるでしょうし、祝意を本当に伝えたい人は何かしら行動を起こすのではないかなと思います。現在の私は人の幸せを心から喜べるような精神状態ではないのであまり精神衛生がよろしくないのですが。

特にオチはありませんが、強いて言うなら何か思うことがあれば言葉と共にしっかり行動を起こして顕在化させていきたいというところでしょうか。

本当に体調が悪いなあ。

休職日記⑥

会社のバックオフィスが残念過ぎて、傷病手当金の申請が進まない。

此方はお約束を守っているのに、彼方は守らないのはちょっと論理が通らないと思う。特に締め切り系のものはさ、クライアント業務で同じ対応していたら契約違反でお金が入らないわけで。バックオフィスの人たちのクライアントはフロントの職員なんだから、その辺りきちんとやらないと給料もらうことできないと思うんだ。

厳しく書いているようで、前の会社ではバックオフィスの統括やっていたから(まあ自身の給料くらいはフロントで稼いでいたけど)、その辺りきちんとしてくれないとおかしいよねって実感値で認識している。バックオフィスの食い扶持稼いでるのはフロントな訳で、分業しているから組織が回っているという口上が通じるのは、対内部の業務でも納期管理や品質管理がきちんとできている時だけだよ。

体調は良くならないというか、過去を振り返った時に10年前から体調悪い傾向にあると記載された文章を発掘したので、ベストパフォーマンスっていつだ?という状況になっている。とりあえず9時18時で働けと言われても無理だなという実感はあるものの、これも実践感覚がなくなったからなのかよく分からない。

精神科とも若干意見が割れていて、復帰に向け目標決めて進めようとしてくるんだが、私の周囲の意見も含め、個人的には完全に回復した状態になりたいという気持ちが強いからまだ復帰の気持ちに向かない。とは言いつつサボりに慣れてしまった気持ちなのかもしれないのでこの微妙な状況は気分の良いものではない。何かこう、これができるようになったら復帰、といったガイドラインがあればいいのだが。

正直上司とのそりもあるから、復職しても現職で働ける気がしないというのもあるかもしれない。そうすると転職活動ということになるが、そのエネルギーはそんなにない。まあ実際お金がガリガリ減っていくのを鑑みるとこれまた精神的によろしくはないので、近いうちに何かしら労働するしかないのかしらと思っている。無心で9時から18時まで、指示されたことだけをこなして定時で帰ればいいのかな。

さすがに2回も休職しているし、私自身が会社員に合わない気質を持っているのも薄々気づいている。これこそまさに適応障害チックな感じ。性格診断でENTJ(EとIはかなり拮抗)なので、せめてマネジメント側に回った方が良い性格だと思う一方、マネジメント側に回るにはプレーヤーとして実績出さないといけないという。

割と考える時間もあったから、パーソナリティ含め自分を俯瞰することはできているのが進歩。恐らく10年前からストレスをかけ続けたから自律神経系が非可逆的におかしくなった。その土台として自己愛性パーソナリティ障害と強迫性パーソナリティ障害の一部症状があって、さらに負荷を課しても乗り越えられるだけの無駄なタフさが状況を困難にしている。完璧主義的で全てを0と1で決めにかかるのも良くないはず。過集中気味で没頭している間は疲労を感じにくいのもある。あと完全にカフェイン依存症。

もうキャリアアップとか面倒になってきていて、どうせ性格的に年収上がっても使わんし、適度に専門性のある仕事できてそれなりに残業があっても有休きちんと使い切れるような普通ど真ん中の仕事がしたい。いや、仕事はしたくないんだけど、稼ぐなら仕方なくという条件つき。一定のキャッシュが入ってくるなら働きたくなんかない。まあねーかそんな仕事。

ChatGPTと創造性の話

ChatGPTの開発が進んでいるようです。

www.businessinsider.jp

皆さんChatGPTを使ったことありますか。あれめちゃくちゃ便利です。会話形式で回答してくれるのと、文脈を理解して応答してくれるので、ちょっと今までのAIとは一線を画す性能だなと感じています。最近は絵を描くAIや小説のプロットや素案を出すAIもあったりするので、今まで人間に向いているとされてきたタスクがAIの侵出を許すようになってきたといった状況でしょうか。

一昔前はオズボーン論文などでAIによって失われる仕事一覧などと騒がれていました(私の理解では論文自体がやや恣意的と考えています)が、ここ10年でも少し世界観が変わってきました。人間が固有に持っている――と個人的には認識している――創造性や感受性の領域についてもAIが対応し始めている(特に、機能をよく知らない一般の人々が使えるレベルになってきた)からです。

私は仕事柄データサイエンティストをやっていたりするので、絵を自動生成するAIの仕組みをある程度のレベルで理解しています。経験が少ないためプログラミングを満足にできないことから、自身で開発となるとやや苦しいですが、背景にある数学的処理等は説明されれば分かります。最近のAIの凄いところは、その背景を分からない人でもとりあえず使えるレベルにUI/UXが整っている部分です。

これは、TVのリモコンを押すと画面が切り替わることを知らなくても、押せばチャンネルを変えられるという事象と同等です。キーボードを叩くと文字が表示される仕組みを知らなくても、PCを使えるのと同じです。そういうエリアにAIが入ってきたということは、いよいよ私たちの生活のお供としてAIが認知されていると言っても過言ではないでしょう。

翻って、人間には何かを創り出す能力が大なり小なりあります。今こうして文字を起こしているのも一つの創作活動と言えなくもないでしょう。そして人間は創作物に触れて――観て・読んで・触って・聞いてなどを統括して――心を揺り動かすことがあります。一般的には感動などと呼ばれる感情です。

こうした創作ー感動は現代に至るまで人間の専売特許とされてきました。時代とともにその技術や方法論は進化をしてきましたが、その利用主体は人間であり、人間がその技術をどのように扱うかといった文脈で研究が進んだと思われます(元々理系で芸術系の知識に乏しいと言い訳しておきます)。

一方、AIの台頭はその主体が必ずしも人間でなくともよいということを示唆しています。こうしたブログの記事もこちらがある程度の方向性を示したら書いてくれそうです。そうしてできた、人間が作ったのかAIが作ったのか定かではない創作物を、人間が触れて感動したとすれば、それはもう創作者が人間である必要がないという世界になります。

ところで、高等学校の物理学においては、あらゆるものの動きはニュートン運動方程式によって規定され、インプットデータが適切であればその物体の動きは完全に予測できるとされます。これを後述する複雑系に対して単純系と呼称します。一方複雑系は、非線形性を持ち部分の総和が全体とならない、といった特徴を持ちます。この辺りに触れ始めると量子力学多世界解釈などもトピックに挙がり、本ブログで取り扱うにはあまりにも専門性が高いため、これ以上は踏み入りません。

閑話休題。私たちの脳で起きているニューロンによる情報のやり取りが複雑系に該当し、つまり、感動という感情は複雑系の世界観で解釈されることになります。単純系と違い予測が難しいからこそ、人間の経験であったり表現方法であったり、そういった創作の試行錯誤が感動に結びついていくという形だったのだろうと思います。CMプランナーだとかシナリオライターだとか、そういった感動を経験的に作り出せる仕事も世の中にたくさんあります。

しかし、創作→感動の矢印は原因→結果で無数の分岐があるものの、結果から見た事実は確定が可能です。この創作物は多くの高評価を得た、という事実は容易に観測できます。そしてAIはこうした結果を教師付き学習できるので、「仕組みはよく分からないけどこれは人間を喜ばせる可能性が高そうだな」という知識を得ることが可能です。そしてAIが人間に絶対的に有利な領域である物量のドカドカ生産でフィードバックを返し、さらなる進化を遂げていく、そうすると創作物は人間の試行錯誤を離れ、感動は自動で作れる時代が到来するかもしれません(もちろんVRやARのような新しい様式の感動はこれからも作られ続けるんでしょうが)。そういった過渡期において、人間の創造性は再定義が迫られるのかもしれないですね。