人生短し走れよ私

人生のピークを過去に設定するにはまだ早いんじゃない?

相手の立場に立って考えよう

小学生の頃から表題のようなことを言われている気がします。人の嫌がることをしないであるとか、そんな変形版もありますね。でもこれって、暗黙のうちに、相手の立場が自分と同等か低いっていうことを前提にしているような気がするんです。加えて、あたかも私たちは相手の立場に立って考えることができるということも前提になっているような気がします。

前者については、自分が配慮する(この場合は相手の立場に立って考えるということですが)相手は、自分がそうするべき存在であるというところからきている前提だと思います。相手の立場が相対的に弱いから、自分は"配慮しなくてはいけないんだ"、だから相手の立場に立って考えるんだ、こういった論理があるように思えます。

基本的に自分より上だと思われる人に対してこのような言葉はあまり使われません。例えば誰でしょうね。小学校でいえば担任の先生でしょうか。生徒に「私の立場に立って考えれば授業中静かになってくれるよね」と言う先生はおそらくいないんじゃないでしょうか。このように、この言葉の指す相手は、無意識に自分より何らかの形で立場が同じか低いと置いているケースが多いように思います。自分のいる場所から降りることはできても上ることはできないということでしょうか。

後者については、あたかも相手の立場に立って考えることができるという前提に同意しかねます。家族やむしろ自分ですら正確に気持ちを把握できないのに、なぜ他人ができるのでしょうか。置かれている状況が異なれば余計に相手の立場に立って考えることが難しくなっていきます。そんなに簡単にできる訳がありません。自分の了見で考えられたと勘違いした結果、すれ違いを引き起こしてしまうことの方が多そうです。

個人的には相手の立場に立って同じ目線で考えることは無理だと考えています。しかし、その取り組みを諦めるわけではなく、むしろそれを目指して考え続けることに意味があるんだと思っています。漸近線のように近づいていくが、接することはない。しかし近づけるように努力する。この過程が非常に重要だと思います。これは、相手の立場に立てるという前提からは生じない姿勢です。困難で、無理だと思うからこそ努力できるのではないかと思います。人の相談に乗る時などに意識していきたいです。