人生短し走れよ私

人生のピークを過去に設定するにはまだ早いんじゃない?

言葉の陳腐化

SNSなどを利用していると、実にたくさんの記事を読むことができます。それらの記事の中には、多くの言葉が氾濫しています。そういった情報に触れていると、おのずとよく出会う単語とそうではない単語があることに気付きます。

これは完全に個人的な意見なのですが、多くの人が言葉を使い始めると、その言葉の持つある種の重みがなくなってしまうような気がします。そしてそれは何となくカタカナ語が多いような気もします。私のよく出会う単語としては、「ソーシャルビジネス」であるとか、「大学生だから〇〇」みたいな言葉ですね。

この感覚はなんだろうと考えていたのですが、何となく思ったのは、多数の人が言葉を使うことによってその言葉の輪郭がぼやけていってしまうのではないかということです。もともとその言葉がなかった時や、ごく少数の人が使っていた時には、言葉にはシャープな輪郭や定義づけがあったのだと思います。それが多くの人の知れ渡ることとなり、常用され始めると、どうしても意味づけが甘くなっていく。

人がその言葉から連想するニュアンスにはどうしても差があるため、多くの人が使っているとその意味の幅は広がっていく傾向があるような気がします。最近では「リア充」とかそのパターンですかね。「意識高い系」とかもそうかな。その結果、その言葉が軽く聞こえてしまうのかなと思いました。