人生短し走れよ私

人生のピークを過去に設定するにはまだ早いんじゃない?

これはピッツァじゃねえ、ピザだ!!

留学生の友達にイタリア人がいるのですが、アメリカのピザはピッツァじゃなくてピザらしいです。曰く別料理だと。日本人からするとそこまで明確な区切りがないので、割と新しい発見でした。ちなみに私はカリフォルニアロールに代表されるアメリカナイズされたSushiは日本の寿司とは別物だと思ってます。

料理の例はわかりやすいですが、人によって世界の見方・切り分け方は異なります。同じものを見せられた時に、それを何と認識するかはその人の経験や知識、慣れ親しんだ文化に依存します。特に知識や経験という側面は、物事の認識に大きく影響すると考えられます。例えば既製品のスーツとフルオーダーの仕立てスーツを別物として捉えることのできる審美眼や、相手の立ち振る舞いから文化的背景を推察する能力なども含まれてくるような気がします。

私は割と本を読んだり新しいことを知ったりすることが好きなのですが、これは換言すれば、新しい世界の切り分け方を知ることが好きだということになりそうです。私は高校の化学で、アルミニウムは酸化被膜を形成しているのですでに錆びているという話を聴いて、アルミサッシの見方が変わりました。もっとまともな例では、大学でマクロ経済学を学習したことで、日本経済新聞の記事が十分に理解することができるようになりました。知識がない状態では単なる物質であったり、よくわからない文字列であったりするものが、知識の習得によって理解できるようになる。こうした世界が広がる感覚がたまらなく好きなんです。

また様々な人々と関わることでも新しい世界を広げることができると思います。こちらでできた友達の一人が台湾人なのですが、彼の中国観は日本人のそれとは大分異なります。そうした話を聴くことで新しい価値観を学ぶこともできます。こうした複眼的な切り分け方を手に入れることで自身の価値観を相対化し、ある種の余裕も出てきます。即ち、価値観の多様性を認められる人になれるということです。こうした知識経験に裏付けられた人間性が教養の一側面になると思います。

現代社会では近年、実学の重要性が訴えられてきています。大学の人文科学系の定員や予算の縮小を進める動きもあるようです。

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こうした動きの背景は私も理解できます。必ずしも十分とは言えない予算で効率よく経済を発展させ国力をつけるためには、社会の要請する人材の育成を目指すことは間違ったことではありません。しかし、人文科学の学問やそれを修めた人材はやはり必要だと思います。それを社会的要請の名の下にバッサリ切ろうとするのは少々乱暴です。私は社会科学と自然科学の境界辺りを勉強していますが、哲学や歴史の基礎知識は必要だと思います。私たちが引退世代になった時にこうした政策がどのような効果をもたらすのでしょうか。