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胸襟を少しだけ開きたい

大学生が考えたことをつらつら書いていくブログ。本日の昼食から留学生活、勉強法から料理まで手広くカバー。

Enjoy thinking!

L'homme n'est qu'un roseau, le plus faible de la nature, mais c'est un roseau pensant.

「10年の修行」はナンセンスなのか

皆さんはお寿司好きですか。私は結構好きです。アメリカ来てからさらに好きになりました。私はお安い寿司しか食べたことがないのですが、寿司職人になるためには相当な修行を積まなくてはいけないようです。

それに対して異論を唱えたのが、ホリエモンこと堀江貴文氏。悠長な修行なんてムダだと言い切っています。いかにもITに携わっていた人のコメントだと感じます。これに対して様々な意見が飛び交っています。例えばこんな記事があります。

news.mynavi.jp

まあこういうのって根性論とか観念論とかが関わってくるので色々な意見が出やすいですよね。私は寿司を握ったことなんてないので、ちょっと違った角度から考えてみたいなと思います。ここでは一流店で想定される10年レベルの修行を想定します。

修行の意味

そもそもなんで修行なんてやらなくてはいけないのか、洗い物なんてしていないで一刻も早く魚を捌いた方がいいだろうというのが、修行反対派の意見です。一理あると思います。寿司職人にまず必要なことが美味しい寿司を握る技術であると考えると、魚の捌き方を練習した方が良いというのは事実です。そういう意味で、長い修行期間はいらんだろと。まあ確かにそうかもしれません。

個人的にはケースバイケースな気がしてなりません。即ち、どこまでのレベルにたどり着きたいかによって修行の必要性も変わってくると思います。

守破離

修行と聞いて私が思い出すのは守破離という言葉です。まずは型を守ること、師匠の言ったことを守ることから始まり、その型を研究することで改良し、破る。最終的には、師匠の型や自分独自の型から離れ、自在になることができるという思想です。

この思想をベースに修行を考えると、最終的な段階まで達するのに長期間の修行が必要ということになります。さて私が思うのは、寿司職人の全員が全員、「破」「離」のレベルに達する必要があるのかということです。

まず大抵のお店ではマニュアル通りに安定した味を作ることが求められていると思います。来る客もそれなりに美味しければ文句も言いませんし、したがって価格帯も安めです。このレベルの職人は正直「守」のレベルに達してればよいわけで、「破」「離」のレベルは必要ないと考えられます。この点を考えると、マニュアルを一通り頭に叩き込むだけの短期間の修行で良いと思います。

しかし、価格帯が上がってくるとそうも言っていられません。お客の目や舌も肥えてくるため、一段も二段も上の価値を作りだせなくては満足させることができないでしょう。こうなってくると、新たな自分のスタイルを確立させていく段階である「破」や、技を自在に操れる「離」のレベルに達している必要があります。それは味であるかもしれないし、パフォーマンスであるかもしれません。もしくはきめ細やかなサービスであるかもしれません。これというマニュアルがないため、職人は目の前のお客やまだ見ぬお客がどうしたら満足するかを考え続ける必要があります。この時、修行で培った観察眼や、雑用で見てきた様々な側面が役に立つのではないでしょうか。

しかし、こうしたお店はそこまで多くないため、職人もそんなに必要ありません。このように考えると、長期間の修行に耐えられる人が多くないと仮定すると、実に需要と供給がかみ合った世界だと言うことができます。

ちょっと未来のことを考える

寿司に限らず、様々な伝統技能は長期間の修行が必要だとされています。先ほどの守破離を考えると、「守」の段階では単純な教えをただ単にできるというだけになります。これではその流派なり技能なりの発展は望めません。

もし修行の文化がなくなってしまったら、その伝統はこれ以上の発展を望めなくなります。良くて「守」のレベルなので現状維持といったところでしょうか。そのため、少数でも良いから、新しい型を作り伝統を発展させることのできる人材を育てる必要があります。こうした世界は私たち一般人が触れることのない分野かもしれません。

 

毎回ふにゃふにゃした結論で良くないのかもしれませんが、修行の必要性はミクロで見れば修行者の求めるレベルに依存し、マクロで見れば伝統文化の発展のために必要だと思います。