人生短し走れよ私

人生のピークを過去に設定するにはまだ早いんじゃない?

先生、なんで書き初めは張り出すのに漢字テストは張り出さないの?

私は左利きでして、書道がまったくできないです。中学からは開き直って左で適当に書いていましたが、小学生の時は右で書くことを強制されていました。左利きの人はわかると思うんですけど、筆って左だと恐ろしく書きづらいですよね。毛先がガガガガって抵抗してくるんです。

小学校によくありがちなのが、教室の後ろの壁や外に書写の作品を張りだすこと。私はなんで自分の欠点を人に晒さなければならないのか疑問に思ってました。国語や算数のテストは張り出さないのになんでだろうと。当時の先生は、確か点数低かった人が可哀想だとか何とか言っていた気がします。当時は腑に落ちないところもありつつ納得してました。でも上手く書けなかった人は可哀想じゃないのかと幼心ながら思いました。

さて国語なり算数なり、教科として学習指導要領に入っているということは、そこには教師が生徒に指導するという要素が入っているはずです。この部分が近年の道徳を教科化するか否かということにも関わってくるように思えます。道徳というものを数値化して評価していいのか、教師の思想信条が強く反映されてしまう恐れなど問題点がありますね。

 

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もちろん国語や算数と同じように体育や図工といった科目も教科として入っているわけですが、これらの科目は他のテストが課される科目とかなり質が異なります。少なくとも私は、早く走れる方法も、写実的な絵を描く方法も習った覚えがありません。やれサッカーをしろだの画用紙に絵を描けだの言われて当時は従っていましたが、それって「指導」なのでしょうか。

そしてもっと酷いことに、その放任主義で出来上がった作品や成果は、かなりの確率で白日の下に晒されます。体育に至っては運動会なんていう公開羞恥プレイが1年に1回もあるわけです。ここに非常に矛盾を感じます。なぜ国語や算数のテストの点数は秘密裏に扱われて、運動能力や絵画能力は表に晒されてしまうのか。しかも後者に至っては、真面目に授業に出ていてもまともに教えてもらえないというおまけ付き。

もし体育などの実技教科が本当に教科であるなら、きちんとした指導が行われてしかるべきでしょう。文部科学省の学習指導要領には、体育科の目標としてこう書かれています。

心と体を一体としてとらえ,適切な運動の経験と健康・安全についての理解を通して,生涯にわたって運動に親しむ資質や能力の 基礎を育てるとともに健康の保持増進と体力の向上を図り,楽しく明るい生活を営む態度を育てる。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2011/01/19/1234931_010.pdf

苦手な人の視点に立つと、ろくに指導もされずしかもそれが公開される環境で「生涯にわたって運動に親しむ資質や能力」が育つんですかね。

ちなみに私は高校の体育は教科だと感じました。水泳の時間、私は初めて「バタ足」や「クロール」についての真摯な指導を受けました。その結果、少しだけですが泳げる距離が伸び、タイムも早くなりました。これが指導だと思うのです。