いっちの感じたこと。時々勉強法とか。

例えるなら具材たっぷりの鍋料理。

命の重さの話

こんにちは。かなり昔から夜眠れないことが多く、それならブログでも書くかと思い、こうして書いております。今日は命の重さについて考えてみます。

煙の重さの測り方

まあいつものように小話からいきましょう。皆さんは煙草の煙の重さの測り方はご存知でしょうか。随分古い映画の中で、こんな測り方が紹介されています。まず精密な秤で煙草の重さを測ります。次に煙草を最後まで燃やします。そして灰の重さを測れば差し引きで煙の重さが分かるというものです。人間の命も同じように測れますかね。死ぬ寸前の人間の重さを計測して死んだ直後に重さを測れば、命の重さも出るんじゃないでしょうか。

命の価値は本当に平等か

さて小話もこの辺にして、本題に入ります。一般に命の価値は平等とされていて、人によって差はないものとされています。人類みな平等みたいなものです。しかし道徳的な観点以外で考えると、そうではない結論も導けそうな気もします。例えば経済的な観点では、たくさんお金を生み出せる人の方がそうでない人よりも重要だということもできそうです。また将来性を考えると、年齢という軸でも考えることが可能かと思います。どこぞの白熱教室ではありませんが、目の前に人が2人いてどちらを助けるかということを思考実験として考えたときに、こうしたことを考える必要が出てきそうです。まあ答えがないのは百も承知ですが、少し考えていくことにします。

どのような人を死なせたくないか

私たちは人が死んでしまうと悲しいですが、具体的な悲しみの度合いは亡くなる人によって異なるのが現実です。例えば肉親や配偶者を亡くしてしまうと本当に悲しい気持ちになりますが、TVのニュースで殺人事件が起きたことを知ってもそれほど悲しくはなりません。日本で年間に殺人事件で300人程の被害者がいますが、関係がない人の死をあまり悲しまないのではないでしょうか。ここから、私たちは関係の深い人をなくすと悲しいということが分かります。次に芸能人の訃報について考えます。一方的に知っているだけの普通の人も、芸能人が亡くなったことに悲しみを覚えることがあります。関係というのは双方向である必要はなさそうです。

以上から、多くの人たちがその死を悲しむ(=死なせたくない)人は、多くの人から認知されて深い関係を築いている人だということができます。

命の重さは人々の記憶

深い関係を築いていたり多くの人の印象に残っている人は、より死なせたくないと思われているということがわかりました。これはその人が記憶されている総量が多いことを意味します。一世を風靡したスターの訃報が悲しいのは、その人をよく知っている人が大勢いるからです。肉親を亡くして悲しむのは、一緒に過ごした年月が長いからです。

こうして考えると、世の中の人々の記憶総量がその人の命の重さと言えるかもしれませんね。脳の記憶が電気信号によるものならば、命の重さは〇〇GBとか表せちゃうかもしれません。この記憶重いなあ、なんて話が落ちたところで筆を置きたいと思います。

就活は大学生活の集大成なのか

ついこの間、知り合いが「就活は大学生活の集大成だ」と言ってたんですよ。これ、割と最近の(特に文系の)大学生は結構納得できる意見だと思うんです。

世間では就活の長期化が問題だと叫ばれ、経団連辺りが中心となって様々な取り組みがなされていますが、実際自分が就活した実感でもあまり効果があるとは思えないです。結局日本特有の本音と建前に企業と学生の双方が振り回されて、lose-loseになっている気すらします。経団連とかに所属してない企業が青田刈りするみたいなことも起きうるので、色々システムは改善する余地があると思います。

閑話休題しまして、やっぱり最近の大学生にとって就活は非常に重要なイベントです。まあ転職があるとはいえ、向こう何十年の社会人生活の入り口になりますから、当然といえば当然ですね。しかし、少し前までは(私はその時代を生きていませんが)、大学生活の集大成は卒業論文だという時代もあったような気がします。というか、私も大学に入学するまでは漠然と卒業論文なるものを書くのだろうと考えていました。

それが入学すると、まず社会科学系の学生は卒論が必修でないこともあると気付きました。私の所属する学部も選択必修ということで、書かなくても普通に卒業できると知って驚きました。必修でないとなると、卒業論文の意義はかなり薄れてくると言わざるを得ません。

考え方にもよりますが、大学の講義は卒論を書くための材料として提供されているのではないかと感じる時があります。経済学であれば、ミクロ経済学マクロ経済学線形代数解析学を知らないと先行研究を読むことができません。また学術文章を書くような講義を履修しないと論文の形式に沿った文章を書くことが困難になります。こんな感じで、まあ真面目に講義を受けることが卒論の完成度をある程度まで高めることができるんじゃないかなあと思います。

この視点に立つと、卒論がないとなかなか講義も身に入らないんじゃないかという気にもなります。よく日本の大学生は勉強しないという議論がありますが、そもそも勉強したものを使う機会に恵まれないのも原因じゃないかとも考えられます。就活で訊かれるのは大体学生時代頑張ったことなどで、チームで成果を挙げるなどいわゆるコミュニケーション力を評価されます。こういった評価軸に、必ずしも大学の学問は必要ありません。必然的に学業の優先度は落ちていきます。大学生が適当に取得する130単位前後の講義は、大卒の資格と4年間の猶予を与えてくれるに過ぎなくなってきています。

就活に特化した学生生活も本人がそれでよいと思うならいいんじゃないかというのが私のスタンスですが、政府はそう思っていないようで、だからこそ様々な施策を打ち出しているのだと思います。この時、就活を集大成にしないためには、勉強したことを活かせる何かを作りだすという方向性も考えられるのではないでしょうか。現状では大学で学ぶレベルの学問を活かせる場所が限られているように思います。意欲のある人は論文書いたりするのでしょうが、大学生のボリュームゾーンはそこまで活発ではないでしょう。

基本的に普通の人たちは迫られた状況にならないと勉強しません。定期テストがないのに勉強する中学生とか、受験もないのに机にかじりつく高校生はまれな存在です。であるならば、単に就活の時期をずらすということ以外に、彼らに勉強したことを活かせるような環境を提供することも勉強に対する動機付けの方法なのではないかと思います。

Appleは今日も平常運転

Apple storeの新店舗が新宿にオープンしたそうです。

japanese.engadget.com

私もiPadの新しい機種を買おうかなあと検討しているので、人が落ち着いたら覗いてみようかなと思っています。

さて、皆さんはスティーブ・ジョブズをご存知でしょうか。ご存知だと思います。Appleの創業者の一人で、映画化もされている超有名人です。私もYoutubeでスピーチを聞いたりプレゼンを見たことがあります。あのカリスマを他人が真似するのは難しいと感じました。

皆さんご存知の通り、彼は既に故人となっています。次々に革新的なガジェットを世に送り続けてきた彼がいなくなって、Appleがどうなったかというと……その後も様々な商品を展開して元気に営業中です。

こんな記事を書いている割にはAppleについて詳しくないので、彼の立場などはよくわかりません。実は後進の育成をしっかりしていたのかもしれません。しかし、彼のような天性の才能を持った人ですら、何かしらの形で代替されるという事実に私は少し驚きました。一族経営でもない大企業であるため、人が一人亡くなったからといって即座に倒産ということは考えにくいでしょうが、現状彼がいなくなったことで私のような素人にも分かるような大きな事態は起こっていません(製品の質が下がったとかはあるかもしれませんが)。

結局何が言いたいのかというと、私たちは良くも悪くも代わりの効く取るに足らない存在なんだなあということです。あのジョブズでさえ、(不完全かもしれませんが)代替されているのに、私たちのような一般市民が代替されない存在なことがありましょうか。

そう書くとまたネガティブな記事かよと思われるかもしれませんが、この取るに足らない存在であるということはポジティブなメッセージも内包しています。私たちが何をしようがしまいが世界はそんなに大きく変わらない、ならば私たちは逆説的に自由に何でもできるということです。法的な責任が生じるかもしれませんが、明日突然会社をバックレても、まあおそらく会社は倒産しないでしょう。大学中退したってそれが世界の破滅にはつながりません。

つまり、自分は取るに足らない存在だと考えることで、もっと気楽にやりたいことやって生きられるんじゃないかという試みです。色々悩んでしまう人は、自分に対する期待度をポジティブに下げるのもありなんじゃないかと思います。

隣のあいつが凄いことは、あなたがダメなことを意味しない

こんにちは。新年度も始まり、花粉が猛威を振るっていますが皆さんお元気でしょうか。私も無事大学を卒業して、所属上は社会人となりました。というのも、特に研修やお仕事をしているわけではなく、会計士試験の勉強をしているだけなので、まったく実感がわいていないのが現状だったりします。まあこの話はおいおい記事にしたいと思います。

さて、よく他人と自分を比べて落ち込むなんてことをした経験が、皆さん一度くらいはあるのではないでしょうか。私はたくさんあります。周りは優秀なのに比べて、自分はどんなに無能で取るに足らない存在なのだろうと、よく感じます。この記事を書いている今この瞬間も、そう思っています。というわけで、今回は他人との比較について考えてみます。

他人と自分を比較してしまう人、しない人

まずざっくり大きく2つに区切ると、世の中には他人を気にして比較してしまう人と気にしない人に分かれます。この違いはどこから生じるのでしょうか。私はその人の置いている目線が関係しているのではないかと思います。

他人と比べてしまう人の目線:可視的なもの

他人と比較できるものは目に見えるものです。例えば年収とか、試験の合否とか、まあふわっとしていますが人望とか、そういう要素が比較対象になり得ます。俺も頑張ってるのにあいつの方が成績が上だ、みたいなことってよくありますよね。他人と比較してしまう人は、比較できるものに意識を置いているから比較してしまうのだと思います。

他人と比べない人の視点:見えないもの

では他人と比較しない人は何を見ているのでしょうか。おそらく目に見えない何かなはずです。例えば目的やそれを行う意味、などでしょうか。こうしたものは外に現れにくく、一概にどちらが優れているとかそういう基準もありません(まあ人に迷惑をかけるとかだと別かもしれませんが)。何か目的なのか、やりたいことなのかに意識を置くと、他人と比べることをしなくて済むかもしれません。

具体例:模擬試験

ちょっとわかりづらいので卑近な例で考えてみることにしましょう。皆さんも一度は受けたことがあるでしょう、受験のための模試を題材として取り上げます。ああいう模試って学内順位とかも出るタイプもあって、結構露骨にクラス内での順位とかわかるんですよね。もちろんそうではないものもありますが、今回はそんな模試を受けた人たちの受け止め方を考えます。

他人と比べるAさん「うわ、模試の成績悪すぎ。なんでクラスのあいつより順位下なんだよ。絶対あいつより勉強してるのに」

他人と比べないBさん「模試の成績悪いなあ。クラスのあいつより順位下だ。でも模試を受ける目的は志望校の合格に近づくためだから、弱点を探せたな」

書いてて適切な具体例か怪しく思えてきましたが、Aさんはよくある他人と比較するタイプの人だと思います。高校時代の私がモデルです。それに対してBさんは、模試を受けた目的にフォーカスしているため、あまり他人と比較せずにいられています。

しかし、Bさんも受験に失敗したら合格した人と比較して落ち込んでしまうかもしれません。それは合格を目標にしてきたのだから当然です。では受験に合格するのは何のためなのでしょうか。そこに視点をもっていければ、人と比べずに済みそうです。

目的の自覚

このように考えると、私たちの目に見える(=人と比較しがちな)ものは、その人のしたい何かに繋がっていると考えることもできそうです。勉強して良い成績を出す目的は志望校に入るため、志望校に入る目的はそこで〇〇するため、〇〇する目的は××するため……というようにずっと続いていきます。他人と比べずにいられる人は、自分にしっかりと向き合った結果、その目的が比べる必要のないところまで到達しているのかもしれません。そんな先のことは考えられないというのもごもっともですが、あくまで暫定的でいいのではないかと思います。模試の時は志望校に入るためと思っておけばよいし、受験失敗の時は大学に入る目的を考えればよいと思います。

今回なんでこんなことを考えたのかというと、昔記事にした自分要らないんじゃないか思考が強まったのもありますが、入社式で聴いたお話が示唆的だったからです。まずは一つの専門性を磨きなさい。そうすることでチームで複雑な課題の解決に貢献できる、まあそんな話でした。私はこれを聴いて、なるほど全部一人でやる必要はないのかと当たり前のことに気付きました。世の中複雑化してきているので、一つの分野を勉強するのにそれなりに時間がかかります。そうであるならば、隣りのあいつと違う強みを持つことで、シナジー効果を用いてチームで達成できることを増やした方が得策です。これはある能力を持つことは問題解決につながるからだという視点をもつことで出てくるアイデアかと思います。隣りのあいつがいかに優秀であろうと、自分はチームに貢献するために専門性を磨いていけばいいのだと、お話を聴いていて感じました。

うーん、なんか網羅性の足りない感じにはなっているけれど、今日書きたいことはこれくらいです。私自身がどうしても自尊感情を高く持てないというか、自分要らないんじゃないかと思ってしまう節があるため、自分の存在価値を少しでもポジティブに考えられるようにしていきたいですね。

 

シャツを仕立ててみました

こんにちは。

もう3月になりました。2月に一回も更新していないのは完全に怠惰でした。3月といえば卒業シーズン。私も大学を卒業することになりました。もちろん卒業式があるので、ある程度ちゃんとした服を着なくてはいけません。女性は袴の用意など大変ですが、我々男性はスーツを着とけば何とかなります。

しかし、私は何とかならない問題を抱えていました。スーツがきつくて身体が収まらないのです。筋トレの記事でも書きましたが、

筋トレで身体つきが変わると服が着れなくなります。仕方がないのでスーツを新調しました。社会人になってからも着るのでまあ必要経費でしょう。

適当に紳士服店に行ってみて、店員さんとお話をした結果、「お客様のサイズですとこちらの3着くらいですかねー」と、どう見ても若者が着るようなシルエットではないスーツが出てきました。

紆余曲折ありましたが、様々な部分を加工することで何とか若者風にはなりました。しかし店員さんも、もうオーダーした方がいいんじゃないかと匙を投げたので、私の身体も規格外になってしまったんだなあと思いました。

で、スーツはまだ既製品を買えたからいいのですが、問題はYシャツです。どんなに頑張っても既製品だと肩幅がまったく合わないのです。これは非常に辛いということで、ついにシャツをオーダーすることにしました。

今回はDIFFERENCEというお店に行きました。

difference.tokyo

担当してくれたのは若めのお兄さんで、まずは採寸から。そこでわかったのは、通常のシルエットに対して肩幅-胴回りが5cmも大きいということでした。確かにどこで合わせてもフィットしないわけです。肩幅、胴回り、左右の袖周りなどを測ってもらいました。私は左利きなので右に腕時計をしているのですが、その分だけ右の袖周りの方が大きくなっているなど、随分色々調整できるんだなあと感心しました。

そして生地選び。まあ今回は式典にも使うようなやつなので、最もスタンダードなホワイトにしました。色々生地があって、選ぶのも楽しくなります。次はシャツのディテール決めになり、ポケットありなしとかボタンの種類、襟の形などを選んでいきます。今回はスタンダードな仕様からあまりいじりませんでしたが、これまた色々選べるためとても面白い。

納期は2週間程度とそんなに遅くなく、価格も8,000円でした。それなりのシャツを買おうとすると5,000円くらいはかかるので、そこまで高い印象は持ちませんでした。

このお店の凄いところは、採寸データがデジタル化して共有されており、次からはネットで注文できることだと思います。特にシャツなんかは何枚も欲しくなる気がするので、これはとても便利だと感じました。

注文したシャツは3月中旬頃納入されるようで、今から楽しみです。何の制約もなく肩を回せるシャツになっていると嬉しいなあ。 

三者面談の話

突然ですが皆さんは三者面談したことがありますか。きっと中学高校辺りで、自分・担任・親の組み合わせで進路系の面談をされた方が多くいらっしゃると思います。

でも私が最近受けた面談、この組み合わせじゃないんですよ。私、会社の人事、そして会計士予備校の講師の組み合わせで面談してきました。

これどういうことなのかといいますと、私は会社持ちで予備校に通わせてもらっているとても幸運な人間でして。こうした面談で勉強の進捗具合とかを会社と共有しつつ勉強を進めているという状態なのです。

そう聞くと何のことはない面談のように聞こえますが、実のところ私たちにかかるプレッシャーはまあまああります。会社である以上、お金を出すからにはそれなりにリターンを求めるはずです。いうなれば、我々は投資案件、会社がスポンサー、予備校の先生は事業の委託者のようなもので、投資が成功しそうかというのを外部の委託者と共にスポンサーにチェックされているということになります。幸い私はこの間の短答で合格できたから良いものの、他の同期は面談に向かう際、戦々恐々としていました。

ここまで読むと面談がとてつもない緊張感のもと行われているように思う方もいらっしゃると思いますが、実際の面談は非常に和やかです。恐らく人事側も私たちが思うほどシビアなことは考えていないと思いますが、内定者サイドはそうもいきません。まあしっかり結果を出していこうと気を引き締めることができるので、良い機会にはなっています。

 

今日書きたいことはこれくらいです。

筋トレの弊害

こんにちは。大寒波が襲来していますが、皆さまお元気でしょうか。

東京でも低温注意報が発表されるほどの寒さで、私も久々に積もった雪を目にしました。住んでいるマンションのエントランスに雪だるま作っておきましたが、誰も大学生の男が作ったとは考えないでしょうね笑

さて、私はジムでの筋トレをよくやっております。始めた当初は身体を引き締めて体力をつけたいなあ程度の思いだったのですが、やり始めるとのめりこみまして。会計士試験の2ヶ月前から少し控えていたのを除くともう1年以上やり続けています。

基本的に私は筋トレ信者です。なので、皆さんにも是非筋トレを勧めたいのですが、ここはあえて筋トレの弊害について書こうと思います。

着られなくなる一張羅

筋トレによる肉体変化はなかなか感動もんです。私の場合はダンベル5kgが限界だったのに、今や2倍以上をがしゃがしゃ挙げられるようになりました。こんな感じで鍛えていくと、自然身体がごつくなっていきます。そこで生じるのが着られる服なくなる問題です。

私は以前持っていたTシャツが一枚も着られなくなりました。インナーもワンサイズ大きくなりました。まあここまでなら100歩譲って買い替えればよいんです。問題はスーツやテーラードジャケットなど単価が高い一張羅です。

私は就活で着ていたリクルートスーツがパツンパツンになりました。内定式の前日時点でネクタイきついボタンの前閉まらない状態だということに気付き絶望という笑えない状況に陥ったこともあります(その時は気合で着て乗り切りました)。

このように余所行きの服やスーツなどが入らなくなると買い替えるにもお金がかかるので、懐が寒くなります。また礼服など日頃着ない服が、いつの間にか着られなくなるというリスクもはらんでいます。

常に襲い掛かる筋肉痛

これは前者と違い、お金持ちであっても防ぐことが難しい弊害です。筋トレを習慣にするということは、即ち筋肉痛と一生付き合うということを意味します。というのも、筋肉をつけるためには常に限界に挑み続ける必要があるからです。

始めた当初は重いと感じていたのが、いつの間にか重たくなくなる。その達成感が筋トレの魅力なのですが、次の瞬間には重量を上げていかなければいけません。トレーニーは常に自分の筋肉を限界まで痛めつけます。そして辛い筋肉痛に耐えなければいけません。経験した人は共感して頂けると思うのですが、死ぬほどスクワットした次の日は足がまともに動かせません。バーベルカールしまくると鞄が鉄塊のように感じられますし、前腕を鍛えると握力がかなり落ちます。日常生活に支障が出るレベルになることもしばしばです。実は今日筋トレしてきているのですが、階段を下りるのも一苦労という状態だったりします。

おわりに

今回は筋トレの弊害について書いてみました。じゃあなんでやってるんだという声が聞こえてきそうですが、

メリットが半端じゃないから!

これに尽きます。というかこれが言いたかったんです。

さあみんなで筋トレしよう!